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ナムジャイブログ
泰国春秋 第一回 全盲のパフォーマー

2009年10月17日

全盲のパフォーマー

でこぼこに突っかからぬよう、大穴に落ちぬよう、ズボンの裾を汚さぬよう。バンコクの舗道を歩くのは結構たいへんだ。住み始めて9カ月、街にもだいぶ慣れてきたが、下を見ながら歩くクセがついてしまった。そうやってオフィス近くのシーロム通りやスリウォン通りをうろつくのだが、夜に出歩くとつい顔を上げてしまうことが多くなる。
スピーカー付きアンプを首から提げ、マイクを持って歌いながらゆっくり歩く歌い手たちに、しばし聞き入ってしまうのだ。彼らのほとんどは盲目のパフォーマーだ。夫婦なのだろうか、多くの人が男女連れだって歩いている。その声は誰もが非常に伸びやかで、きちんと技芸を感じさせる。なので手持ちに硬貨があれば芸を味わった「お代」を差し上げる(硬貨がないと出さないあたりがセコイ)ことにしているが、一方でやはり大変なんだろうなと思ってしまう。
日本でも「門付け」といって、三味線などの芸を身につけた全盲の方々が各地を回り、民家や商家の軒先で演奏してはお代を稼ぐということが、昭和の時代までは多くあった。三味線の門付けと聞いて思い浮かぶのが、我が故郷・青森県の名手、高橋竹山(初代)である。本名高橋定蔵、津軽は平内町の生まれ。3歳で麻疹を患い極度の弱視となった。このため親は三味線を習わせ、竹山は十代半ばで東北や北海道を門付けして歩いた。
「食べるため」の旅は苛酷だった。目の見えないタイの歌手たちの「門付け」は南国ゆえにすごしやすそうだが、東北の冬は凍(しば)れる。吹雪の中、軒先で三味を弾いて、何も出ないどころか怒鳴られるのだという。寝場所もなく、漁師小屋に忍び入って飢えと寒さに耐え、盲目と貧困ゆえに差別された。
『魂の音色—評伝・高橋竹山』(松林拓司著、東奥日報社刊)を読むと、「ドン底時代を思い出すと自然と手がじゃわめいで来る」とある。津軽弁の「じゃわめく」とは、焦りと不安と怒りでさざ波立つ感情の、思いがけない発露である。
竹山はその後、民謡の大家である成田竹雲(故人)に伴奏の腕を見込まれて飛躍、門付け芸だった津軽三味線を世界に通用する芸術へと磨き上げた。昭和の時代にテレビやラジオから聞こえてきた「津軽じょんがら節」などの多くは、竹山の演奏だと言っていいだろう。もの悲しさと逞しさ、そして柔らかさを包んだあの音は、苦忍の中から生じて人々の心を打ったのである。
来年(二〇〇八年)二月五日は竹山の十年忌である。この間、上妻宏光や吉田兄弟ら多数の若手が台頭するなど、津軽三味線の芸道を内外問わず世に広めている。彼らに道を拓いた先人を無意識に偲ぶからなのか、タイの歌い手につい心を惹かれるのかもしれない。
ちなみにシーロム通りとスリウォン通りに挟まれたタニヤ街を夜歩くときに限って、下を向かずにキョロキョロしてしまう。なぜだろう?


三河正久(みかわ・ただひさ)日本経済新聞社バンコク支局長
1967年5月青森県八戸市生まれ。1992年日本経済新聞社入社。同社産業部や『日経ビジネス』編集部で企業取材を担当。2007年3月から現職。共著に『ゴーンが挑む7つの病|日産の企業改革』『トヨタはどこまで強いのか』など。
Posted by Webスタッフ at 18:21