インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ
泰国春秋 第十二回 コトバの悦楽

2009年11月10日

コトバの悦楽

タイ語でも英語でも、毎日のように聞いて理解できない単語にぶつかる。
言いたいことがあるのに、単語が頭に浮かんで来なくて、会話にまごつく。
母国語以外を話している時に相手とのコミュニケーションが滞るアノ一瞬は、筆者にとっては何度味わっても消えないストレスだ。「あーすいませんね頭が悪くてねー」と、いたたまれなさが汗腺から灰汁となって出てくる感覚に囚われる。特に英語を話していると、このマイナス思考が強まる気がする。「これまで長く勉強してきたのに…」との忸怩たる思いが強いせいだろう。
このストレスを乗り越えてでも外国語を習得して海外にいたいなんて「マゾ以外の何者でもない」と思うが、来る日も来る日も懲りずに学び続けてしまうのである。なんでだろう、やはり話が通じたときの達成感に伴う高揚とか快感とかが脳内麻薬となるからだろうか。
新しい言語が使えるようになりつつある時の方が脳内麻薬の分泌量は多そうで、タイに来て1年半になる筆者は今、タイ語を話すのがとても楽しい黄金期を迎えている。この先にまたハードルがあるのだろうが、英語ほど「話せなければ恥ずかしい」的な強迫観念がないので気楽なもんである。
この「言葉が通じる快感」を最初に味わったのは小学6年生の頃だったと思う。青森県八戸市の片田舎に住む鼻垂れ小僧だった筆者はある日の下校途中、背の高い赤ら顔の男3人に囲まれた。おそらくロシア人だ。日本に木材を輸出するため八戸の港に船でやって来たロシア人が多くいたのである。石油資源の輸出で潤うバブリーな今のロシア人と違って、当時まだ「ソ連」にいた人々はどことなく暗く貧しい雰囲気があり、港近くに古タイヤや粗大ゴミを積み上げておくと翌日にはきれいに片づける(全量を船に積んで持ち帰る)という人々だった。そんな3人に急に囲まれて「あ、これでボクもロシアのツンドラ地帯で木こりになって一生を終えるかも」と一瞬、恐怖に固まった。
ロシアン3人はどうも、筆者が持っていた雑誌に興味を持ったようである。たしか「月刊へらぶな」とかいう釣りの雑誌だった。その頃の筆者は毎日のように釣りに行き、大きくなったら絶対に『釣りキチ三平』になるとの固い信念を持ち、釣りの雑誌や釣り具を肌身離さず持ち歩くオバカな子供だった。ロシアンズは「なにそれ?」と聞いたのだと思う。神童、答えてく「フィッシング・ブック!」。すると、「オー!」とか何とか言って奴らは筆者の頭をなでて去っていった。
たったこれだけなのだが、むくつけき大男らから解放された安堵感とともに、初めて英語が通じたとの錯覚で舞い上がり、なぜだか走って家まで帰った。今考えると、英会話というのもおこがましい「タダの単語」なのだが、とにかく単純なので釣りキチ三平になるのは取りあえずやめて英語を使う仕事がしたいと考えるようになった(ホントか)。
実際には、そこからがイバラの道だった。英語圏に留学したこともないので今も人並みに下手くそである。アメリカ人の英語に慣れたと思ったら、イギリス人のは聞き取れないし、タイをはじめアジアの方々の自己流英語はもっと分からず、インド訛りの英語に至っては理解度のハードルを初回から50%程度に下げねばならない。いつの頃からか、バイリンガルの皆様方のように話すのを諦めてしまった。
で、今は「タイ語の園」に遊ぶ日々だ。本格的に勉強したい気もあって某学校にも一応は籍を登録してあるのだが、いかんせん時間が取れない。ゆえに自然と仕事の後に飲み屋でタイ語の勉強にいそしむ格好となっている。習った先生も学校の数もだいぶ増え、これはこれで授業料が高くついて大変なのだが、日本から離れて生活しているかぎり仕方がないことだと自分に都合良く割り切っている。


三河正久(みかわ・ただひさ)日本経済新聞社バンコク支局長
1967年5月青森県八戸市生まれ。1992年日本経済新聞社入社。同社産業部や『日経ビジネス』編集部で企業取材を担当。2007年3月から現職。共著に『ゴーンが挑む7つの病|日産の企業改革』『トヨタはどこまで強いのか』など。脳神経外科医の植村研一氏によると、言語の習得には外国語を浴びるほど聞き、大脳内の「ウェルニッケ言語野」にその外国語の言語中枢を作り出すのが早道だという。幼児が言葉を覚えるのと同様に「聞く」「話す」「読む」「書く」の順で進むのが自然で効率的な習得につながるそうだ。
Posted by Webスタッフ at 15:49